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日本性風俗史

管理売春制度の確立まで 古代〜近世
古来、芸能に携わる女性が今日の風俗嬢のような役割を兼ねていたことは、よく知られています。源義経の時代、白拍子といえば、身分は低くても娼婦としては高級扱いでした。静御前は当時のスター娼婦だったということです。

この歴史はいまも続いています。現代の芸能人は、歌手・俳優・タレント・女子アナとありますが、いずれも風俗嬢の経験者が多いのが特色です。政財界人に見初められれば出世も早く、愛人の地位を得るようにもなります。

いくつか例をあげましょう。藤原紀香はかつてCM女王でしたが、これは芸のない彼女に暴力団と財界人がその地位を与えていただけです。愛人の地位を失えば、女優への転身にも失敗しますし、格下の相手と結婚するしかないわけです。

神田うのはエリート官僚の娘ですから、最初から政財界に重宝されました。しかし彼女には歌手や女優としての能力はなく、タレントとしても問題児だったため、実業方面でのバックアップがなされて現在に至っています。

松嶋菜々子は高級ソープ嬢だったという確度の高い情報がありますが、彼女の美貌に目をつけた財界が出世の階段を上らせた結果、いまや大女優の扱いです。彼女には実力もありますが、実力だけで成功する世界ではありません。

さて今日のような性風俗産業が確立したのは、江戸時代のことです。もともと娼婦町は各地に散在していましたが、戦国時代が終わって政局が安定すると、風俗産業は許認可性になりました。それを始めたのは豊臣秀吉とされています。

徳川幕府は本格的に管理売春政策を進め、娼婦町を特定の地域に統合しました。この政策によって、京都の島原・大坂の新町・江戸の吉原という幕府公認の娼婦町、いわゆる遊郭が生まれました。元和3年(1617年)のことです。

遊郭に集う遊女には序列があり、有名な花魁という最高級娼婦は江戸時代半ばに生まれた位です。花魁は娼婦としてたしなみやテクニックを会得しているだけでなく、和歌や書道などの教養も身につけていました。

一方、宿場町には非合法の遊女もいて、普通の宿屋が今日のような風俗遊びの場所にもなっていました。宿屋の飯盛り女は、たいてい風俗嬢も兼ねていました。いまでいう、ちょんの間のようなものが常態化していたわけです。

宿屋が遊郭のようなことをやるのは違法でしたが、宿屋の飯盛り女が娼婦を兼ねていることは公然の事実であり、幕府も黙認していました。いまでいえば、ファミレスのウェイトレスに金を渡すと、セックスしてくれるわけです。

江戸時代には夜鷹という遊女もいました。これはいまでいう立ちん坊です。当時もこのケースはあまり質のよい女はおらず、金に困った女や、年老いた遊女が夜鷹に成り下がって個人営業していたようです。

売春防止法の成立まで 明治元年〜昭和33年
明治時代になって、政府は公娼制度を廃止しようとしましたが、非許可営業の規制に留まり、遊郭は存続しました。だいたい伊藤博文はじめ、明治の元勲の奥さん方はみんな元芸者・元遊女ですから、取り締まるも何もありませんね。

宿屋の飯盛り女も、姿を変えながら存続し、昭和戦前に流行ったカフェの女給がその手の存在でした。もともとカフェは喫茶店ですが、不景気になるとピンクサロンと化して、サービスもヒートアップしたようです。

第2次世界大戦の敗北で日本がアメリカに占領されたとき、政府は進駐軍兵士のための慰安施設を設け、娼婦を募集しました。これは米兵が日本人女性を強姦しまくる懸念から、彼らの性欲を管理するのが目的でした。

米兵向けの慰安施設は「 Recreation and Amusement Association」と名づけられ、略して「RAA」、日本名では「保養慰安協会」と言いました。この施設は全国に設置されましたが、性病が蔓延し、敗戦から1年で廃止されました。

保養慰安協会の廃止はGHQがキリスト教精神に基づいて公娼制度の廃止を要求したためですが、自分たちの性欲を棚に挙げてよく言ったものですね。保養慰安協会は事実上は昭和24年(1949年)まで残りました。

保養慰安協会の廃止にともない、政府は職を失った娼婦たちの再就職先として、吉原や新宿2丁目など旧遊郭街での売春を黙認します。これが「赤線」です。警察が地図の該当地域を赤線で囲ったからと言われています。

「赤線」に対して、無許可地帯での売春営業を当局が黙認していた地帯を「青線」と呼びました。地図を青い線で囲ったからでしょう。新宿のゴールデン街が旧青線地帯で、ちょんの間が多くあった場所です。

公娼制度の廃止は、多くの立ちん坊を生みました。この昭和版夜鷹が「パンパン」と呼ばれて、米兵の腕にぶら下がって夜の街を闊歩していました。また当時「メイド」と言えば、やはり米兵相手の日本人娼婦のことでした。

かくして日本の性風俗事情は、表向きは公娼制度を廃止しながら、事実上は公娼を黙認するという混沌とした時代を迎えました。しかし赤線・青線地帯の治安の悪化もあって、ついに売春防止法の制定と相成るわけです。

新風営法の成立まで 昭和33年〜昭和60年
昭和33年(1958年)の売春防止法施行により、江戸時代以来の遊郭は姿を消しました。赤線はトルコ風呂街、現在のソープランド街となり、青線は飲食店街となりました。表向き売春は行なわれなくなりました。

現在のソープランドは、もともと女性による純正のマッサージサービスのあるサウナという形態の店で、しだいに性的サービスを行なうように変化したものです。昭和41年(1966年)の風営法改正で許可営業となりました。

管理売春が禁じられて以後、性風俗は手コキ産業となりました。その中で、ピンクサロン、のぞき部屋、ノーパン喫茶などが1970年代に流行します。一方で素人による売春が社会問題になりました。

60年代から70年代の女子校生は、駅の掲示板を使って売春をしていました。男性と違って性欲の捌け口がない少女たちは、むさぼるように売春に励み、欲求の解消をしていました。ときおり週刊誌などで話題になったものです。

1980年代には、デートクラブ、ホテトルが急増し、いずれも売春斡旋を前提とする非合法産業だったため、たびたび警察の摘発を受けました。エロ本ではまだ陰毛が御法度だったため、ビニール本が流行りました。

昭和58年(1983年)に愛人バンクが話題になります。水面下で広がっていたものをマスコミが取り上げ、最大規模のバンクと言われた「夕暮れ族」の代表筒見待子がテレビ出演で顔を売り、結果的に警察の摘発を受けました。

ファッションヘルスは80年代にトップレスヘルスとして登場した店が進化したもので、ファッションマッサージの名で親しまれました。ソープランドよりはるかに低料金で楽しめるため、店舗数も急増しました。

昭和59年(1984年)の風営法改正で、深夜0時以後の営業が禁じられました。施行は翌昭和60年(1985年)でした。またこの年にトルコ風呂の名称がトルコ人の抗議によりソープランドと改名しました。

84年改正法は新風営法と呼ばれました。営業時間の規制により、日の出からの早朝営業が話題になる一方で、深夜の客引きや違法ぽったくり営業が増加し、むしろ治安の悪化を呼ぶことになりました。

ファッションヘルスは新風営法によって風俗営業として認可されましたが、条例で新規出店が禁じられるなどの制約を受けることになりました。また営業時間の規制で深夜11時以降の駆け込み客が増え、風俗嬢の負担となりました。

06年改正法施行まで 昭和60年〜平成18年
昭和61年(1985年)にエイズの流行が話題になり、日本人患者も出たことから、ソープランドが打撃を受けます。ファッションヘルスは69などサービスの濃厚化に努め、ディープキスのサービスでソープとの差別化を図りました。

エイズ情報が大げさに伝わったことは、セックス以外のサービスの激化を呼びました。そのためにエイズ以外の性病に対して無防備になり、後のクラミジア大流行のきっかけがこの時期に作られました。

時代が平成を迎えたころ、ダイヤルQ2やテレクラが流行しはじめます。また当初鶯谷や高田馬場などにしかなかった夜這いクラブが、イメージクラブとして進化し、大久保や新宿にも店舗を増やしていきました。

ヌード写真で陰毛が事実上解禁されたのは、平成6年(1991年)に出版された宮沢りえの写真集「サンタフェ」のヒットによると言われています。またこの頃からテレクラを使った売春が流行していきました。

それまでヤクザの呼び出しに使われていたポケベルを女子高生が持つようになり、これが売春の道具として重宝されました。テレクラなどで客を取ることを取り締まる法律はなく、誰でも手軽に女子高生とセックスできる時代になりました。

平成7年(1992年)頃から、出会いの空間が新種のデートクラブとして店舗を増やしました。以後買春禁止法制定までの期間、女子高生・女子中生とのセックスが性風俗の主流となり、風俗店遊びは事実上意味を失いました。

一方で韓国エステが増えはじめ、韓国デートクラブ、韓国ホテトルも増えました。韓国女性の口数の少なさ(日本語が話せないだけですが)、質素な容姿に古風な魅力を感じる男性の人気を集めました。

90年代から外国人夜鷹が増え、南米系・東南アジア系・中国系の女性がグループでの活動を盛んにしました。1万円相場とリーズナブルなため、それなりに人気を集めましたが、背後には国際的な売春組織がありました。

平成12年(1999年)に「児童買春、児童ポルノに関わる行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」が制定され、女子高生・女子中生とのセックスが違法となりました。これによりデートクラブは激減しました。

90年代後半に増え始めていたデリバリーヘルスが平成10年(1998年)の風営法改正で届出制となり、営業を許可されました。これにより営業形態上はホテトルとの区別ができなくなり、事実上のホテトル認可となりました。

98年改正法は翌平成11年(1999年)に施行されました。それまで風営法上無認可の業種だった性感ヘルスの営業権も届出により認知されましたが、F・ヘルス、性感ヘルス、イメクラ等のサービスはボーダレス化傾向を強めました。

平成18年(2006年)の改正風営法施行で、店舗型風俗店が一掃され、風俗地図が大きく塗り替えられました。風俗店はすべて届出制となり、特定地域以外での宣伝もできなくなる一方で、ネット宣伝が定着しています。

(2006.1.5記)


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